摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)とは、戦国時代の1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日)に磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた米沢伊達政宗軍と会津蘆名義広・佐竹氏連合軍との合戦である。
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背景
伊達政宗は人取橋の戦い以降、蘆名氏・佐竹氏との対決姿勢を強めながら、仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しつつあった。一方、それに対する蘆名氏・佐竹氏の危機感は高まっていた。伊達政宗は蘆名氏の本拠会津を奪うべく行動を開始する。だがそれは豊臣秀吉の出した「惣無事令」を無視する行動であった。
政宗は猪苗代盛国の内通(盛国の長男盛胤は蘆名軍先鋒として参戦。盛国と後妻の生んだ次男らが伊達方)で本宮から会津への道を確保すると猪苗代城を拠点にし、一方の蘆名義広は須賀川城から猪苗代湖南岸を進み、軍を黒川城へ集結させる。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち伊達勢を挑発する。伊達軍は21,000人、蘆名軍は18,000人とほぼ互角であった。
しかしながら蘆名軍には1580年の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者、伊達氏に内通する者、佐竹氏より送り込まれた当主・蘆名義広に対し不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力に乏しかった。
合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われた。開戦当初は西からの烈風が追い風となり、蘆名軍が有利に戦っていた。暫くして風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、蘆名軍は総崩れとなった。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大した。蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常陸国へ敗走した。
蘆名軍の大敗の様子は『奥羽永慶軍記』では、次のように記されている。
「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり……。ここにして会津勢1800余人討つ」
影響
蘆名氏は金上盛備や佐瀬種常といった有力家臣の多くを失い、事実上壊滅。また、当主が実家の佐竹氏のもとに逃亡し、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は完全に滅亡した。
伊達政宗は南奥州の覇者となり、居城を会津黒川城へ移し、更に白川結城・石川氏らを服属させた。しかしながら翌年の豊臣秀吉の奥州仕置によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、獲得地の会津領ほかを召し上げられた。しかし会津の地は蘆名氏が復帰することはなく、蒲生氏郷に与えられた。
大崎合戦(おおさきかっせん)とは、天正16年(1588年)1月に起きた伊達政宗と大崎義隆による戦い。
伊達政宗は、出羽の最上義光、会津の蘆名義広、常陸の佐竹義重ら敵対勢力に領地を囲まれていた。 政宗は状況を打破すべく、同じく伊達家と敵対する大崎家が近年弱体化している事に目を付け、攻め込む機会を狙っていた。そのような中、大崎義隆の寵童同士による争いが起きると、それぞれの寵童を通じ主君義隆へ近付こうとする家臣たちの思惑から、大崎家中を二分する騒動は内紛へと発展してしまう。 事態を重く見た大崎家重臣氏家吉継は、奥羽で確固たる力を保持する伊達家に争いを鎮めて貰おうと願いを出すと、大崎家を攻める機会を得た政宗は快諾する。 大崎家内紛の鎮圧という名目を得た政宗は、重臣の浜田景隆、留守政景、泉田重光、小山田筑前守ら約10,000人(5,000人とも言われる)の兵を大崎家へ送った。
伊達軍の苦戦
大崎家には伊達勢と正面から戦う力はなく、居城の中新田城に籠城するしかなかった。 2月2日、伊達軍は中新田城に攻め寄せるが、深田に囲まれた城の周りは軍勢を動かすには難しい土地であり、加えて大雪により身動きが取れなくなった伊達軍は撤退を余儀なくされた。 城の囲みを解いた伊達軍を見た大崎軍は城から討って出て、伊達軍は苦戦を強いられる。 さらに追い打ちを掛けるように、伊達軍の大将の一人留守政景の岳父であり、大崎家を離れ伊達家に属していた黒川晴氏が、旧主大崎家へと寝返り桑折城から打って出て伊達勢を強襲。冬戦に疲弊しきった伊達勢はさんざんに打ち破られ潰走した。 また、大崎氏の支流である最上義光が5,000人の兵を大崎家救援に派兵。更に、大内定綱が苗代田に、蘆名氏等が伊達領南部に侵入し、相馬氏が石川弾正を使い介入すると、南北より攻められる形となった政宗は窮地に立たされてしまう。
和議
苦境に立たされた伊達勢は、黒川晴氏の仲介で大崎氏と和議を結び、ひとまず戦いを休止するも、大崎・最上勢と伊達勢の両軍勢は睨み合ったまま膠着状態となる。 5月になると、最上義光の妹であり政宗の生母義姫が戦場に現れ、両陣営の間に割って入るとどちらも手を出せず、和議を結んだ各陣営は帰国の途についた。
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)とは、天正15年(1587年)に起こった肥後の国衆(国人)による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)ともいう。
経緯
戦国時代の肥後国は、守護菊池氏の衰退の後、長らく50余りの国衆が割拠する状態が続いた。1580年代に入ると肥後は薩摩の島津氏の支配下に納まるが、1587年5月、豊臣秀吉の九州征伐により肥後は島津氏から没収され、同年6月、佐々成政に与えられ、52人といわれる国衆の本領は安堵された。
国衆の独立志向が強いことを察知した秀吉は成政に、統治にあたっては一揆が起こらないように配慮し、検地(太閤検地)は3年間行わないなど融和的な政策を採るよう指示していた。しかし、成政はこれを守らずただちに検地を行った。もっともこの根拠となっている秀吉文書は偽文書の可能性が高いという。
同年7月、隈部親永(隈府城主)・親泰(山鹿城村城主)父子が、秀吉の安堵を受けているのだから検地を受け入れる必要はない、として検地に反抗して挙兵すると、国衆の多くがこれに呼応し、肥後全域を巻き込んだ大規模な反乱へと発展する。成政は隈部父子の居城を攻撃するが守りが堅く手こずり、逆に居城の隈本城が甲斐親英・菊池武国らの猛攻撃を受け落城寸前まで追い込まれるなど、大苦戦。
九州を「唐入り」の兵站基地と位置づける秀吉は、一揆が拡大することに危機感を抱き、九州・四国の諸大名を総動員し、同年12月にようやく一揆は鎮圧された。
成政は翌1588年2月、大坂へ出向き秀吉に謝罪しようとするが尼崎に幽閉され、やがて一揆を引き起こす原因を作ったとして切腹を命じられた。閏5月14日、成政は摂津国尼崎法園寺にて最期を遂げた。
一揆の収束後、秀吉は一揆に参加した国衆だけでなく中立的立場をとった国衆をも処罰した。そのため、52人いた国衆のうち48人が戦死しまたは処罰されたという。
肥後は新たに加藤清正が北半国、小西行長が南半国の領主となった。